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0. はじめに
1. 制作の意味、必然性ばかり考えたら疲れてしまいます
2. シュルリアリズムに触れて私の作品作りが変った
3. 作品制作手順の考え方をトップダウン方式からボトムアップ方式へ
4. 偶然との出遭い
5. 「違和感」を描く、形にするS
6. 結論と今後の指針:
* 今回が最終回です |
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0. はじめに |
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デジタルアートに魅せられたきっかけは、制作の過程でパソコンの画面上に思い掛けない情景や造形が突然に出現し、びっくりさせられたことに始まりました。
『コンピュータなんて何の役にも立たない答えを出すことしか出来ないのだから』と、ピカソはデジタルアートの世界の潜在的な可能性を評価しませんでした。ではなぜ評価できなかった(又はしなかった)のか。答えは簡単です。ピカソが生きた時代(1881-1973)には確かにプログラムした通りにしか動かないのが計算機だったのです。今は全く違う時代に入りました。はるかに進化したパソコンとインターネット環境が普及し、アートの創造過程にまで入り込んで作家の作品の制作過程の根幹にまで影響を及ぼすようになりました。パソコンが知能を持って、作品の共同制作者的な支援までしてくれる時代に入っています。ピカソはそのことを当時予見できなかっただけのことです。ピカソが今のパソコンとその環境を当時手に入れていたとしたら、今のアートシーンは大きく変わっていたのではないでしょうか。
第3回までで、デジタル技法の特徴を中心にどの部分が今までになかったことで、何がすごいのか考察してきました。今回は、自分の作品制作の経緯を振り返ってデジタル技法を使ったアート表現をどう考え、どう深め、実際の作品制作にどのように結び付けてきたか、一つの事例として私の場合をご紹介します。読者が作品制作上でいろいろと悩む場面で思い出していただき、多少ともご参考になればうれしいです。
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1. 制作の意味、必然性ばかり考えたら疲れてしまいます |
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私は、デジタルアートの作品制作を手掛けた当初は、自分としての作品制作の目標は何だろう、どんな作品を目指して制作しようと考えているのか、制作の意味は何かなど、いつも自問自答し長い期間悩みながら考え続けていました。折角、デジタルアートの面白さを感じ、その入り口に立てたと思ったのもつかの間、挫折がすぐに訪れました。それでは作品の制作が面白くありません。
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『人はあらゆる物や人に意味を見いだそうとする。これは我々の時代にはやる病気』(ピカソ)だったのかもしれません。
作者側と同様に、作品の鑑賞者側に立った場合にも、それがなぜそこにあるのか、そこにある必要があるのかと考え納得したり、そうでない場合には作者を質問攻めしたりします。でも気にすることはありません。時には必要なことなのですが、常に本質的な意味や必然性を求め続けたら疲れてしまいます。 |
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2. シュルリアリズムに触れて私の作品作りが変った |
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自分のアートとは何か、と思い悩んだ末に行き着いたのが、「偶然」と「無意識」(潜在意識)というキーワードです。これがその後の当方の作品制作に大きな役割を果たしてくれました。アートの世界にも「偶然」を活用するなどということがありうると知った時にはある種の親近感と新鮮な感覚を覚えたと記憶しています。もともとシュルリアリスト(超現実主義者)のダリの作品などに惹かれていたので、現代アートシーンにおけるシュルリアリズムを掘り下げて勉強してみたいと思っていました。そしてすぐにシュルリアリズム(超現実主義運動)が現代アートの100年の流れの源流に位置づけされており、その中で「偶然」と「無意識」を積極的取り込んで行こうとしていたということを知りました。なにしろ、それまで偶然をアートに取り込もうという考え方は存在していなかったし、心象風景などという言葉も、形のないものを見える形にしていくと発想することなど考えられもしなかったのです。
当時、第一次世界大戦(1914-8)の教訓として理性や知識を突き詰めても世の中の平和は実現しないどころか、結局は世界大戦を防ぐことができなかった、という大きな挫折感がありました。 芸術の分野全体にわたって、理性や知識(既成概念)を取り払って、今ある世界の別の局面へと跳躍させる突破口を見出したいと、「偶然」と「無意識」というものに対して熱い期待を寄せたのです。意識の危機(混乱)を芸術全般の制作活動に生かして現状を打開して行こうという考えがシュルリアリズムの基底にありました。これらが私の心を強く揺さぶりました。
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3. 作品制作手順の考え方を トップダウン方式からボトムアップ方式へ |
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当初、私は作品のメッセージ性やテーマ性を真っ先に重視する姿勢で制作に臨みました。例えば、都会が地震などの自然災害に合った時の脆弱性や、都会という環境は果たして人の本来の生活環境として相応しいモノなのだろうか、などと考え、それを作品に反映しようと試みました。そのテーマをどういうコンセプトと具体的情景で表現しようかと考え、構成を試行錯誤し、部品展開し、ブレークダウンして行く方法と手順を考えました。最初のうちはよかったのですがやがて、アイデアの枯渇と共に作品制作が徐々に苦しいものに変わって行きました。そうなると悩みの続く毎日です。これではたまりません。そこで思いついたのが、コンピュータ上でそれまで蓄積してきた部品をコラージュ(*)してそこから思い掛けない情景や造形を発掘しそれをきっかけとする作品制作でした。これは、今までのトップダウン方式から脱して、いわばボトムアップ方式とでも言えるものでした。偶然に遭遇したこれは面白いという情景をきっかけにそれを選択し、そこからさらにイメージを膨らませ、自分を幻覚、幻想の世界に引き込み作品を自分の満足度を尺度にさまようものです。これで気持ちがとても楽になりました。それまで作品制作の疲れから解放されました。
もちろん、偶然の面白さの追求だけに終わらせるのではなく、あくまでも今の社会に生きていて感じるテーマ性や問題意識を忘れていいというものではありません。
(*)コラージュとは、既存の作品や写真の切片などを組み合わせて、意外性のある場面や情景を生成する方法又はそれによる作品を言う。物は、本来固有の機能や意味を持つものではなく、その置かれた状況や環境で意味合いが変わるものだ。というのが基本にある考え方です。
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4. 偶然との出遭い |
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偶然にも、私の経験的な知見とシュルリアリズムの考え方--偶然との出遭いが作品制作のきっかけを与えてくれる--が重なる部分があることを見出して以来、デジタルアートとシュルリアリズムとの関係に興味を抱かずにはいられないこととなりました。
『私は求めようとしない。そこに見いだすのだ』とピカソは言っています。私が最も好きなピカソの言葉の一つです。ピカソはシュルリアリズム運動とは一線を画していましたが、たまたま出遭うものを大切にするという着眼点では共通点があったのだと思います。
このことがその後の作品制作上で最も大切にしているポイントを確立するきかっけになりました。私の主たる制作過程は、まさにデジタル技法を活用して、その思いがけない偶然のイメージとの運命的な出遭いの機会を大いに増やそうとする試行そのものにつながっていくことになりました。
その偶然との出遭いは大いに運命的です。それを捉えた瞬間に、既にイメージを膨らませる方向がある程度準備できています。そこを出発点(触媒)に、試行錯誤を繰り返しながら自分のイメージをさらに膨らませて、自分の表現を実現すべく自分だけの発明品に仕立て上げて行くのが制作の最終過程です。この過程はまさにオリジナリティーを追求する過程そのものだと思います。
今、私は、デジタルアート作品の制作過程の大部分を3DCGの世界で行っていますが、その3DCGも、また今後出現するかもしれない新しい未知のデジタル技法も、「偶然」と「無意識」をさらに掘り起こし、洋々たるデジタルアートの世界に潤いをもたらすものであろうとの確信を強めています。これからも、「偶然」と「無意識」を切り口に、コンピュータの先端的な活用を心がけつつ、現代におけるデジタルアートとシュルリアリズムとの関係性を追求して行きたいと考えているところです。
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5. 「違和感」を描く、形にする
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・「偶然」と「無意識」をアートに積極的に活用するということに並んで大切に思うシュルリアリズムの重要なポイントが「違和感」の仕掛けです。鑑賞者の意識の混乱を恣意的にもたらそうとするものです。作品が人を惹きつける大切な要素の一つは、鑑賞者に「違和感」を感じさせることです。その違和感が大きいほどインパクトがあることになります。現実にはありえない物どうしの組合せ、物と環境との組み合わせが違和感を生み、なぜこの組み合わせがあるのか、その違和感を通してその世界のドラマと面白さを感じさせられ、さらに作者は、何を意図しているのか、と気になって仕方がなくなります。
よく「解剖台の上で、ミシンとコウモリ傘が遭遇した。」などとの例が挙げられます。要は、日常まず同居する機会がありそうもないものどうしの組合せが違和感を想起させ面白さにつながるというわけです。ドイツのシュルリアリストのエルンストは、「一見相容れないような二つ以上のものを相容れない表面に並べ置くことが最も強力な詩的爆発を引き起こしうる。並べ置く要素が恣意性が高いほど、より一層劇的かつ詩的な結果がもたらされる。」と言っています。「物には、固有の意味や機能があるのではなく、場所と環境が組み合わさってこそはじめてそれらが決まってくる。」ということを言っています。
日常にどこにでもある何気ない場面の中にもその種子はいくらでも見出し得るものだと私は考えています。それを嗅ぎ取るのは、違和感に対する感度を高めるしかありません。まさに自分の無意識の表出とでも言えるものだと思います。
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6. 結論と今後の指針:
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作品の価値、よしあしを決めるのは、作者と鑑賞者との作品を介してのコミュニケーションの結果であり、両者の共同作業ということができると思っています。作者がまず、強い「驚き、心を揺さぶられる感動」を作品に表現しようと思う強い意図、思いがなければ両者の共同作業は始まりません。それがあってこそ次に、観た者に「危機の意識」を呼び起こさせ、「驚き」を掻き立てられることにつながって行くのだと思います。それらが大切なポイントです。違和感が表現できただけでは、面白みがありません。アート作品としては、なぜこの組み合わせがあるのか、一瞬危機を感じさせる。作者は、何を意図しているのか、と聞いてみたくなるほど機微に富み、グッド・アイデアだ、なるほど、そういう攻め方があるか、といった新鮮さ、オリジナリティーがあることが必要です。気になる。また見てみたくなる、次の作品を期待したくなることが必要です。
私が考えるシュルリアリズム作品には、何がどのように描かれているのか明確にうまく表現されていなければなりません。もし、表現力や技法の拙さが距離や意図しない違和感を作ってしまうのであればそれはコミュニケーション手段としては不十分です。論外であろうと思います。
以上の議論を踏まえて、最後にデジタルアート作品制作上の私の指針をまとめました。読者の参考にしていただけるとうれしいです。 |
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@ 徹底したオリジナリティーの追求
誰もまねのできない作品の発想、技巧を目指すものです。3DCGで今まで誰も作ったことがない新しい景観、世界を表現した新しい感覚の作品創りを、誰もやったことがない制作過程、制作行動まで含めてできたらどれほど楽しいものであろうかと考えています。
A 自分表現を深化させ追求する姿勢を貫くことにより、自分発見、自分啓発の喜びを感じること
現代に生きる作家として、社会に真正面から向き合うことは当然のことです。そのためには、テーマ性、メッセージ性を作品を通して描き上げるための表現力は欠かせないと思います。新しい先端のメディアやテクノロジーを生かす技術力もデジタルアーティストとしては必須のことと考えています。
B 革新性と先進性の追求
新しいテクノロジーのみならず、新しいことに絶えずチャレンジしているというアーティストとしての姿勢が何よりも大切だと思います。作品の中に一つでもアイデアを凝らした小さな挑戦があることが重要だと思っています。その積み重ねがいつか革新性と先進性の実現に近づくと信じています。
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* 今回が最終回です |
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今回を最終回とします。第5回として、デジタルアートの今後はどうあるべきか、どういう可能性があるか、など掲載しようと考えていましたが、この重いテーマについては、しばらく時間を置いてさらに考えてみようと思っています。
読者の方々には、私のデジタルアート論にしばらくのお付き合い、本当にありがとうございました。感謝いたします。 |
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